岡山県真庭市
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勝山 三浦邸の物語
 
 

歴史を紡ぐ真庭の物語

2020年04月10日 by 甲田智之

顕次の子、基次は東京で生まれた。

福沢諭吉の実妹が、産婆として基次をとりあげたという。

その後、基次は慶應義塾、学習院と進んで学びを深めた。学習院では、大正天皇と机を並べている。

青年になるまで東京暮らしが中心だったため、勝山との接点はほとんどなかったが、その分、父の顕次から勝山のこと、三浦家のことについて、いろんな話を聞いて育った。

――三浦家の血を継ぐもの、という自覚が同時に芽生えていった。

時代は明治になり、「武士」という身分はなくなっていたが、最後の勝山藩主として、自らの武士道をまっとうした父親の存在はやはり大きかった。

そしていつしか基次はまだ多くを知らぬ「勝山」にも愛着を覚えるようになっていた。

 

やがて時が経ち、明治二十七年。基次二十二歳のとき。

理由の詳細は残っていないが、東京に居を残しながらも、父の顕次らとともに、勝山の三浦邸に帰郷することになった。

これまで何度か訪れてはいたが、「暮らす」となると、観点が変わってくる。

基次が三浦邸に入り、あらためて興味を持ったのが、すべてのふすまに施されている「鍋島焼」であった。

彼はふすまにそっと触れ、父に問うた。

「……父上、この焼き物は」

「そうか、まだ話していなかったか。この鍋島焼こそ、旧鍋島藩と、ここ勝山との変わらぬ友好の証である」

そして父、顕次は静かに語りはじめた。

 

 

むかし寛永十五年、つまり一六三八年か。

天草四郎という者が、肥前国嶋原野城で蜂起したという。天草四郎は神の子とも呼ばれていて、彼のもとに多くの兵が集まり、一大組織ができあがった。

幕府側は、天草四郎の乱を制圧するため、ときの老中、松平信綱を総帥に立て、総攻撃を開始した。

兵力では勝っていたものの、天草軍は神がかっており、うまくいかなかった。

そんななか、我らが先祖、三浦正次も援軍として二月十六日に江戸を発ち、信綱軍の加勢に向かったという。

江戸から肥前まで、わずか十日ばかりの二十六日に着き、翌二十七日には再び行われた総攻撃に加わった。

二日間にわたる総攻撃は、天草率いる軍に致命傷を与え、ついに降伏させることに成功したと残っている。

そして喜びもつかの間、正次は二十八日には肥前を発ち、三月九日には江戸へ。

将軍徳川家光に戦果を報告すると、任務の遂行もさることながら、その迅速さに大変喜んだという。

さて、鍋島藩の話であった。

じつは、天草軍との戦いのなかで、「我こそが一番槍を」と息巻く幕府側の藩が、ふたつあった。鍋島藩(佐賀県)と立花藩(福岡県)、どちらも地元の藩であった。

しかしなかなかうまくいかない。

もはや相手の裏を掻くには、総帥信綱の統制を破るしかないと、鍋島藩が単独で天草軍の一郭を突破。これが起因となり、原野城は落城に至った。

一番槍をあげた鍋島藩は、おかげでその武名を江戸まで轟かせたという。この「統制を破る」という秘策を鍋島藩に授けたのが、――我らの先祖、正次であった。

鍋島藩による感謝の気持ちは、多大なものであったらしい。自領のうち、五千石を「ぜひ三浦家に進献したい」と申し出たようだ。

しかし、正次は断った。

「志はありがたいが、その義ならばご心配なく。どうしてもと申されるならば、将来、三浦家に一大事のことがあらば、そのときにこそ、よろしくお頼み申す」

そして後年、明和初年。

天草の乱から一六七年も経ったのち。

三浦明次が移封を命じられ、勝山に城を移築することとなった。自前で建てるため、莫大な負債を抱えなければならず、進退に窮していた。

どうにもならず、無理を承知で鍋島藩に無心を頼んだところ、なんと無期限の無利息で黄金一万両もの大金を融通してくれたのだ。

この恩と義が、いまもなお旧鍋島藩と勝山をつないでいる。

三浦邸のふすますべてに施されているこの鍋島焼こそ、当時のことを忘れないとても大切な証となっている、というわけだ。

 

 

その逸話は、基次の心を貫いた。

鍋島藩による恩義はもちろん、その場で受け取らず、三浦家の未来に託した三浦正次の言葉に深い感銘を受けた。

「基次、おまえもまた、三浦の血を継ぐ者のひとりなのだ」

父は優しく、そう言った。

基次はまっすぐ父の目を見て、ひとつ大きく頷いた。

……ここ勝山に戻ってきたのは、ちゃんと意味があったのだ。

もし、勝山に帰郷せず、東京暮らしのままであったなら、三浦家の軌跡はそのまま忘れ去られていたかもしれない。そんなことは絶対にあってはならない。

そして基次は三浦家のこと、勝山のことをはじめ、「残す」ということ、残すだけではなく、「発展させていく」ということに注力していく。

もともと日本画や俳句、写真が好きだったこともあり、三浦邸の庭を整えながら、その光景などをおさめ、「残す」ことをはじめた。

 

その矢先、明治二十八年に父、顕次が亡くなっている。

三浦邸への帰郷からわずか一年ほど。

享年五十一歳。――激動の時代に生きた最後の勝山藩主であった。

 

父亡きあと、基次はさらに、自らの活動を加速させていく。

明治から大正にかけて、制度が整っていくにつれ、真庭郡では警察署、真庭郡役所、県立中学校などの設置を急がなければならなかった。

久世町に設置するのか。勝山に設置するのか。

この二択でつねに揉めていた。

結果的に、総じて勝山が優勢だった。決め手となったのは、基次による岡山県知事への働きかけであった。

これまでの勝山について。これからの勝山について。

基次は先祖の名に恥じぬよう、堂々とした様子で淀みなく語り、岡山県知事を納得させていった。

そんな逸話が残っている。

県立中学校をぜひとも勝山に、と活動をおこなっていた際、勝山の旅館岡野屋に当時の岡山県知事を迎えたことがあった。

本来であれば、お願いする立場である基次だったが、その席において、基次は知事よりも上席へとすすめられた。

そして着座するなり、つぎの席に座る知事に対して、「知事、よろしく頼む」とだけ伝えた、という。

――基次もまた、立派な武士であり、勝山を想う藩主のひとりであった。

 

そして基次の子、義次へとつながっていく。

義次は明治三十七年の十月、三浦邸で生まれた。多感な幼少期を、勝山の豊かな自然のなかで過ごし、大正六年、十三歳で東京へ遊学に出た。

 

三浦義次を語るうえで、佐々木智恵子の存在は外せない。

 

レナウンの創業者、佐々木八十八の次女として生まれた佐々木智恵子は、神戸女学院を卒業後、義次と結婚して、ともに東京で暮らしはじめた。

はやくに親、兄弟を亡くした父の八十八は、健康に対して異常なほど神経質だった。

そのため、智恵子は自宅で調理したものしか食べさせてもらえなかった。体調も父親によって徹底的に管理され、毎日体温を計られていたという。

もちろん、住環境にもこだわっていた。

空気がきれいで、静かなところ。

東京にある三浦家は、その条件を充たしていたらしく、貴族院の議員になっていた八十八は三浦家を気に入り、よく滞在していたという。

その後、東京の三浦家に智恵子の妹、惇子も居候することになった。

NHK連続テレビ小説『べっぴんさん』主人公のモデルとなった、あの坂野惇子(佐々木惇子)である。

――義次の妻、三浦智恵子(佐々木智恵子)は、その実姉であった。

 

穏やかな日々であったように思えるが、すでに日本は日清戦争、日露戦争を経て、第一次世界大戦も終えていた。

すなわち、さらにつづく人類史上最悪と評される「第二次世界大戦」が、じわりじわりと近づきつつあった。

――そしてまもなく日本も宣戦布告、第二次世界大戦へと突入していく。

ただ開戦当初、日本にはまだ勢いがあった。

国内にいても、ほとんど影響を感じなかったらしい。

しかしいつの頃からか、投入される日本兵の数が増えていき、同時に帰らぬ人たちが増え、日本では食べるものがなくなっていった。

戦争の魔の手は、東京にも迫っていた。

止むことなく投下される焼夷弾が逃げ場を奪い、家も人も動物も焼き払い、ひと晩の死者数が十万人を超えたという、東京大空襲。

三浦家も避けられなかった。

焼夷弾によって焼かれ、被災したため、義次と智恵子はともに、勝山の三浦邸に戻ってきた。

すぐ後、神戸大空襲で自宅が焼かれてしまった坂野惇子も、三浦邸に疎開。

ちなみに当時、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などの作品で知られる文豪、谷崎潤一郎も同じ勝山に疎開している。

――昭和二十年八月十五日、終戦。

智恵子の妹、惇子は勝山を引き払った後、神戸で西洋式の育児法を取り入れた、これまでにない特別な商品(べっぴんさん)を扱う、ベビーショップ・モトヤを開店。

やがて一大企業「ファミリア」の創業につながっていく。

 

義次は、町立勝山図書館長になり、昭和六十年八十一歳で、その生涯を閉じる。

妻の智恵子も、もういまはいない。

 

 

いまは別棟になっているけれど、当時は三浦邸と蔵(現在の食事処)がつながっており、その通路に、智恵子さんの部屋などがあったらしい。

智恵子さんはネコ好きであったという。屋敷のまわりにはいつも、たくさんのネコがうろうろしていた、と濱本さんは笑う。

智恵子さんの亡きあと、彼女の部屋はしばらくそのままになっていたが、あるとき見知らぬ男が三浦邸を尋ねて、こう言った。

「……ある方から依頼を受けて、智恵子さんの荷物を引き取りにあがりました」

言うなり、男は智恵子さんの荷物をどこかへ持ち出してしまったらしい。

あの男は何者だったのか。

引き取った荷物のなかには、三浦家を語り継ぐうえで必要な、大切なものも含まれていたかもしれない。

 

――僕は、顔をあげた。

もう一度だけ、鍋島焼が施されていたはずのふすまに触れて、三浦邸内をぐるりと丁寧に歩いていく。

畳を踏み、その感触を確かめていく。顕次や基次、義次の歩みと重ね合わせるように。

その息づかいに耳をすませる。ここに顕次が、基次が、義次が暮らしていた。激動の時代を駆け抜けてきた。

けれど、もう三浦家の人たちはいない。残り香のようなものもなく、がらんどうの屋敷があるだけで、だれも住んでいない。

失礼を承知で言わせてもらうなら、観光客が好むような派手な装飾もない。ぽつりぽつりと思い出したように訪れる人たちしかいない。

ほかの文化財と比べて、歴史的に日が浅い、という人だっている。

――それでも。

それでもどうして、濱本さんたちは、いまも三浦邸を守りつづけているのだろう。

 

濱本さんはいまでも三浦義次のことを「殿さま」と呼ぶ。

それが答えなのだ、と思う。そこには、勝山を守りつづけてきた三浦家への感謝と畏怖が込められていた。

「私たちが子どもの頃、三浦邸のわきを通ることがありました。そのとき、大人たちに言われたことは、三浦邸をまじまじと見ちゃいけん、ということでした」

だから皆、顔を伏せて歩いたという。

なぜなら三浦邸には、勝山藩主が住んでいるから。

 

勝山を守りつづけてきた三浦家。

そんな三浦家を支えつづけてきた勝山の人たち。

その関係性が、いまもなお生きつづけている。

「しかし歴史的な事実として、三浦邸に三浦家が住んでいたのは、ごくわずかな期間だったではないか」

そのとおりかもしれない。

ただ、三浦家が「勝山」を想いつづけてきたことに間違いはない、と確信している。

東京の台東区に、「真島坂」という坂の名が残っている。近くに三浦家の屋敷があったと言われ、昭和四十二年まで、三浦家の屋敷界隈は「真島町」と呼ばれていた。

真島町は、つまり「真嶋藩」に由来している。

――三浦家が後世に残したもののひとつである。

 

三浦邸という建物を見てほしい、とは思わない。

歴史的に価値があるのは、そこではない。「いまでも三浦邸を守っている人がいる」ということだ。「いまでも義次さんを、殿さま、と呼ぶ人がいる」ということだ。

だれからも忘れ去られたとき、人は本当の死を迎える、という。

濱本さんたち、椎の木おもてなし会の方々は、失われながらも、三浦の名が絶えることのないよう、今日も三浦邸を守っている。

――三浦家が「勝山」を守りつづけてきたように。

 

そんな三浦家が通るための正門を、やっぱりくぐろうとは、どうしても思えなかった。

正門の向こうには、椎ノ木がその歴史を語るようにそびえていた。

 

 

 

- あとがき ー

はじめて三浦邸を訪れたとき、「椎の木おもてなし会」の方々の存在が不思議で仕方がありませんでした。

三浦邸に隣接する食事処「椎の木御殿」で働いているだけではなく、ほとんど毎日、もうだれも住んでいない三浦邸の掃除もしているというんです。

その理由が知りたくて話を聞かせてもらったのが、この物語をつくるきっかけになりました。

物語をつくるにあたって、「椎の木おもてなし会」の濱本さんの話に加えて、「勝山町史」と「真庭郡史」を参考にしました。ただ、文献などをベースにはしているものの、あくまでフィクションであること、ご容赦ください。

この物語を通じて、少しでも「三浦邸」に興味を持ってもらえたら、足を運んでもらえたら、と願うばかりです。

最後に、ご協力いただいた「椎の木おもてなし会」の皆様に、感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

甲田 智之

 

文:甲田 智之
絵:金定 和沙

 


甲田智之

真庭市在住のもの書き。2児のパパ。Twitterアカウント→@kohda_products

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