文献などをベースにしてはおりますが、この物語はあくまでフィクションです。

 

 

正門をくぐろうとは、どうしても思えなかった。

高田城の麓から移築されたという、落ち着いた佇まいの正門。

くぐろうと思えなかったのはたぶん、濱本さんの話を聞いたあとだったからだろう。

かわりに、うす曇りの秋空を仰ぐ。正門の内側から、向こうに見える椎の葉が、泳ぐように大きく揺れている。

躍動しているが、素朴。素朴だが、根の深い椎ノ木は、樹齢四百年を数える巨木で、「椎の木御殿」と呼ばれるにふさわしい風格を備えていた。

さっきまでここの案内してくれていた濱本さんは、蔵を改築した食事処に戻ってしまったらしい。濱本さんはその食事処で働いている。

くるりと振り返って、眼前の屋敷と向き合う。

そして僕は、ここの名前、――三浦邸、とつぶやく。

 

時刻はお昼を少しまわったぐらいだった。

三浦邸には、だれもいない。だれもいないけれど、僕は頭をさげてから、しずしずと靴を脱いで玄関にあがった。

自然と頭を垂れたのも、濱本さんの話を聞いたあとだったから。

 

もうここには、だれも住んでいない。だれかがここに住んでいた、という残り香みたいなものも、正直なところあまり残っていない。

屋敷にあがって、畳を踏み、廊下を進み、また畳を踏んで、ふすまに手をかける。

「……むかしはぜんぶのふすまの取手に、鍋島焼が施されていたんじゃけど」

濱本さんは寂しそうに、そう言っていた。

いま、僕が手をかけたふすまの取手に、鍋島焼はない。

ここだけではなく、ぐるりと見まわしても、鍋島焼はどこにもなかった。

鍋島焼とは、佐賀藩(鍋島藩)で製造されていた高級な磁器である。佐賀県の伊万里焼は有名だが、そのなかでも大川内山でつくられていた高級品を、「鍋島焼」と呼ぶ。

――なぜ岡山の北部、真庭市勝山の三浦邸に、佐賀県の鍋島焼があったのか。

それはいずれ、語ろうと思う。

僕がそのときに思ったのは、なぜここに鍋島焼があったのか、ではなく、なぜここに鍋島焼がないのか、ということ。

あったはずの鍋島焼が、なぜなくなっているのか、ということだった。

「……だれかが持ち帰ったんじゃろう」

教えてくれた濱本さんの表情に、悔しさがわずかに滲んで見えた。

 

三浦邸は、だれでも無料で入ることができる。

毎週火曜日と水曜日、年末年始は休みだけれど、それ以外の午前九時半から午後四時半までは、いつでも出入りすることができる。駐車場代もかからない。

そして門前の椎の木をはじめ、淡さと鮮やかさを併せ持ったゆたかな紫陽花や、やわらかな風を感じられる縁側からは深呼吸のような庭が、僕たちを迎えてくれる。

――それが可能なのは、日々の手入れがあるから。

濱本さんたち、「椎の木おもてなし会」の人たちが、三浦邸のためにほとんど毎日、半日をかけて屋敷内の掃除をおこない、庭の手入れをしている。

守っている、と言っていいと思う。

僕は、何度もその光景を目にしてきた。

だからこそ悔しい。持ち帰られたこともそうだけれど、なにより、――三浦邸を守れなかったことが。

どうして濱本さんたちは、そこまでして三浦邸を守るのだろう。

もうここに、三浦家の人たちはいない。残り香のようなものもなく、がらんどうの屋敷があるだけで、だれも住んでいない。

失礼を承知で言わせてもらうなら、観光客が好むような派手な装飾もない。ぽつりぽつりと思い出したように訪れる人たちしかいなかった。

それでも守るべきものがあるのだろうか。

僕はふすまから手を放して、在りし日の三浦邸にひとり、想いを馳せていた。

 

 

時代はさかのぼって、慶応四年。――すなわち、江戸時代最後の年。

ペリーの来航によって決定的にもたらされた、時代の大きなうねりは、たちまち日本全土を覆い、四百年もつづいた徳川幕府を終焉に向かわせていた。

どれほど多くの血が流れたことか。

新政府樹立を叫ぶ者たちに押され、権威を落とした徳川幕府は、もはや風前の灯火となっていた。

――時代が大きく変わろうとしていた。

 

そんな慶応四年、一月十一日。

勝山では、雪が舞っていた。紙のような頼りない雪が、ひらひらといくつも舞い、葉を落とした木々に導かれ、地に落ちて消えていく。

音はない。しかし耳をすませるように、十代勝山藩主、三浦顕次は目を閉じ、口を結んだまま座っていた。凍てつくほどの寒さが、むしろ集中力を高めていく。

顕次、当時二十一歳。

眼前には伊東多門をはじめ、年配の家臣たちがずらりと揃い、みな一様に顕次の言葉を待っていた。

岡山藩より、談合を持ちかけられた。

「……そなたも聞いておろう。徳川幕府はまもなく倒れる。さすれば勝山藩も幕府と同じく賊軍とみなされる。いまのうちに尊皇派に寝返ってはどうか」

もちろん顕次や家臣たちの耳にも入っていた。おそらく徳川幕府は倒れるだろう、と。

当時、勝山藩は幕府側についていた。

このまま徳川幕府が倒れたら、勝山藩も新政府樹立を叫ぶ尊皇派の標的になってしまうのではないか。

「……しかし」

顕次は黙したまま、考えていた。

――三浦家は代々、徳川とともにあった。

先祖、三浦正次が徳川家に擁立され、恩顧を受けて以来、その恩義を果たすためにずっと徳川家に仕えてきた。

勝山藩主初代の三浦明次から、百年以上ものあいだ、そしていまもなお脈々と受け継がれている。その遺伝子は、勝山藩主十代の三浦顕次にも刻み込まれていた。

さらに、近隣諸藩との関係もあった。

徳川家に仕えてきたのは、なにも勝山藩だけではない。

近隣の津山藩、松山藩も同じく徳川家に忠誠を誓い、同盟を結んでいた。

「……津山藩、松山藩。彼らを裏切ったうえ、代々受け継がれてきた三浦家の想いまで断ち切って良いものか」

顕次の表情が険しくなっていく。雪が舞うほどの寒さにも関わらず、彼のこめかみには汗さえ浮かんでいた。

談合を持ちかけた岡山藩は、反徳川の尊皇派である。

しかも、小さな勝山藩とは比べものにならないほどの軍備を持ち、兵力にも雲泥の差があった。そんな強大な岡山藩と一戦を交えるのか。

 

――顕次は、三浦家が「守ってきたもの」を想った。

それは三浦家の血脈だっただろうか。徳川への忠義だっただろうか。もちろん、血脈も忠義も守りつづけてきた。しかし、それだけではなかったはずだ。

代々、三浦家が守りつづけてきたもの。

それは、「この地に住む民たち」ではなかったか。彼らの生活を守るために、苦心してきたのではなかったか。

「……殿」

伊東多門の呼びかけに応え、三浦顕次はゆっくりと目を開いた。

家臣たちが固唾をのんだまま、ずらりと膝を揃え、顕次を見つめている。彼らもまた、この地に住む民たちであった。

顕次は彼らの視線ひとつひとつを丁寧に受け、やがて口を開いて言った。

「……たったひとりの血を流すことも許さない。すなわち、だれひとり殺されてはならない。勝山藩は、岡山藩とともに尊皇派の道を歩んでいく」

明暗を分ける、重大な決断だった。

勝山藩が、津山藩、松山藩と結んでいた同盟を突如破り、幕府側から尊皇派へと切り替えた瞬間だった。

 

もちろんこのとき、津山藩はまだ何も知らない。

江戸時代の終わりは目前まで迫っていた。しかし幕府側と尊皇派は互いにゆずることなく、各地で激しい衝突をくり返し、多くの血が流れ、混迷ばかりを深めていった。

そしてついに、「無血」を誓った顕次たちにも、岡山藩より「幕府軍を討伐せよ」と進軍の命がくだされた。

――標的は、津山藩。

同盟を破ったうえ、さらに攻撃まで加えなければならない。

「……なんという因果か」

自分の判断は間違っていたのではないか。

顕次はひと知れず、己自身を責めつづけた。津山藩と刀を交えたくはない。避けられるなら、避けたかった。

どれほど願っても、時代の流れに逆らうことはできなかった。命じられるままに勝山藩は兵を集めて、軍備を整え、津山藩に向けて進軍を開始した。

ゆっくりと、しかし着実に、津山藩へと向かっていく。

岡山藩を加えたこちらの兵力を考えれば、まず津山藩に勝ちめはないだろう。むしろそのことが、顕次にはつらかった。

……なんとかしなければ、このままでは。

 

歴史の奇跡とは、ときにこういう場合に訪れる。

津山藩に目前まで迫り、顕次が手を振り、いままさに攻め入ろうとしていたとき、京都において岡山、津山の両藩主会談がひらかれた。

その場で、津山も勝山藩同様、尊皇派、勤皇の誓約をおこなうに至ったというのだ。

情報はすぐに、顕次のもとに届けられた。

「まことか」

顕次は思わず立ち上がった。たかぶる気持ちもそのままに、声を張りあげた。

「聞け、津山藩への進軍は中止じゃ」

――衝突寸前のことだった。

あと数日遅れていたら、間違いなく歴史は変わっていただろう。

顕次の願いどおり、ついに一滴の血も流されず、山陰は時代にその身をゆだね、大政奉還を迎えることになった。

いまも「会津藩の悲劇」として語り継がれている、若き白虎隊たちのあの哀しい集団自決を思えば、無血がいかに奇跡的であったか、思い知ることができるだろう。

 

年号は、江戸から明治となる。

しかし歴史年表のように、すべてがすんなり変わったわけではない。いくつもの新制度が混乱をともないながら打ち立てられていった。

 

明治二年、六月。

版籍奉還(諸大名から天皇へ、領地と領民の返還施策)の願いが朝廷に認められ、勝山藩は真嶋藩と名を変え、同時に顕嗣は藩主から藩知事となった。

それはすなわち、中央集権化、藩主としての力を奪われることでもあった。

象徴として存在していた屋敷の取り壊しが決定。小雨の降るなか、不要となった三浦家の屋敷は、拒む余地なく取り壊された。

三浦明次以来、代々住みつづけてきた屋敷が壊されていく。その容赦のない光景に、顕次は時代の移り変わりを感じないわけにはいかなかった。

「……」

濡れそぼった顕次に、語りかける者はだれもいなかった。ただただ三浦家の魂が削られていくような想いだった。

その後、地元庄屋の白石氏から支援を受けて、顕嗣は新たな居を構えることになる。

――それが、現在の三浦邸である。

新しい屋敷を建てた、というわけではない。

門や玄関部分は、屋敷のものをそのまま移築。柱や壁板なども古材を使って昔の面影を残すという、白石氏の粋な計らいが、そこにはあった。

門前の椎ノ木も、三浦家をあらわすような巨木であった。

三浦家の屋敷取り壊しに感じるものがあったのは、顕次だけではなかった。白石氏もまた、そのうちのひとりであった。

 

さらに明治四年、七月。

廃藩置県によって真嶋藩は真嶋県となった。すさまじい勢いで打ち立てられていく新制度に、人々は困惑と不安が隠せなかった。

――そして、ついに事件が起こる。

県知事となった顕次の、東京移居が命じられたのだ。

はじめ、顕次は何を命じられたのか、理解できなかった。やがてふつふつと沸きあがってくるものがあった。

「……勝山を離れるだと」

それはまぎれもない。まっしろな怒りであった。

すべては「この地のため」であった。顕次だけではない。初代から、ずっと三浦家が守りつづけてきたもの、それは「この地」であった。

だからこそ、岡山藩の申し出も受け、屋敷の取り壊しにも無言を貫いたのではないか。

「いまさら、勝山を離れるなど……」

怒りはまもなく、悲しみに落ちていく。

顕次には、何の権限もなかった。新政府の方針に従うほかなかった。

「無力ならば、せめて……」

顕次は、自らのやるべきことを愚直に見定めた。

ことは急がなければならない。

藩校であった明善館に、長きにわたり三浦家に仕え、支えてきた地元の庄屋、参謀、町方役人、医者など、思いつくかぎり、あらゆる者たちを呼び集めた。

同時に、ありったけの酒と料理を用意した。

なにごとか、と皆々が思ったのは言うまでもない。

豪華な料理と酒がずらりと並べられてはいるものの、ただごとではない気配に充ちている。明善館は、かつてないほど異様な雰囲気だった。

――そして、顕次が立った。

「……」

彼らをまえにして、顕次の表情は、とても穏やかであった。

はじめに、東京移居の旨を伝えた。あくまで簡潔に、穏やかに。そう伝えようと決めていた。

隠している本心が漏れたら、間違いなく混乱の種となってしまう。決して余計な混乱を招いてはならなかった。

顕次は、にわかにざわついた者たちを制してつづけた。

「……生業とは互いに分かち合い、協力していくもの。これから先、皆それぞれに心を配りながら励み、どうかこの地、勝山をよろしく頼む」

言い終えたのち、顕次は、――ひと知れず唇を噛んだ。

顕次、二十四歳のことであった。

 

事件が起こったのは、翌日である。

村々が、顕次の東京移居を認めなかったのだ。顕次の熱烈な引留め運動が起こり、それは瞬く間に勝山ぜんたいを巻き込んでいった。

当時の嘆願書が、いまも残っている。

「聞き分けの悪い部下をお許しください」

差出人は、真嶋県管轄美作国真嶋郡村々。すなわち勝山に住む、すべての人々の願いであった。

嘆願書の文言はつづく。

農民の味方であり、氾濫する川を整え、開墾に手当てを与え、貧民に手をさしのべ、広く教育を施し……。

感謝の想い、民たちの想いがひたすらに綴られていた。

三浦家と勝山の関係。

――その答えが、嘆願書にすべて記載されていた。

読み終えた顕次は黙したまま、目を閉じた。決して流すまい、と心に誓っていたが、顕次の頬に、ひとすじ流れるものが光ったように見えた。

 

しかし結局、民たちの嘆願むなしく、顕次は東京へ移居することになる。

 

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